Round Gear ―第六節―


「……くっ!」

 思わず口から、苦々しげな声が漏れる。獲物を少しずつ追い詰める肉食獣のように……いや、この場合、追い詰められているのは彼女のほうであるのだが。
自分の居る位置を縛るかのように紅い光線が夜を貫き、縛られた身体を目指すように蒼い力が迫ってくる。辛うじてそれを避わすと、直ぐに縛る光はその配置を変えて自分に迫って来る。身体の自由が、利かない。
 一見出鱈目な軌道を描くに見える蒼き力は、確実に一定の秩序を持って動いている。その秩序も、彼女にとって見切るのは容易であった。が、今の彼女にはそれを避わすに十分な体力がない。限界まで張り詰めた精神が、現状を維持させているに過ぎない状態であるのだ。
 …蒼き力が、自分を目指す軌道で迫って来る。回避せねばならない。その自らの周囲には、紅き光の檻。今の自身の状態でこの状況を回避するには…答えは、一瞬で導き出される。
 全身を灼くような、そんな感覚を覚えながら。光の檻の淵ぎりぎりへと、身体を滑り込ませる。身体をかすめて蒼き力が過ぎ去っていく……その一瞬の死角に入り、彼女は渾身の力を籠めたナイフを投擲する。二本、四本、八本。それはどうやら全てが命中したらしく、妖力による檻は、その姿を消失させる。

「なかなか、ね……だったらこれでどう?」

 妖力の檻は打ち破ったが、飽くまでそれは一つの『スペルカード』を制したに過ぎない。あと何枚かのスペルカードを打ち破ること、それが彼女たちの間に成立した、ルールなのである。

 先ほどにも増して、妖気が膨れ上がる。レミリア自身を取り囲うような妖気の壁。そしてそれが、空間に複雑な壁を編むように近づいて来る。事実それは、圧縮された妖力が網を成す事で、空間すら歪ませる力をはらんでいた。顕界と冥界の境が、紅の網によって蹂躙されていく。

「あなたのお迎えも、近いんじゃない……?」
「残念ね、絡んだ空間を解くのは、得意なのよ!」

 それは事実、虚勢ではない。彼女の能力に起因して、副産的に空間や結界の類には強い体質であるのだ。彼女はこの時のために秘蔵していた一つのスペルを、その想いのたけと共に解放する。

「幻……殺人ドール!」

 一瞬空間を編むように配された幾重ものナイフが、解き放たれた意思によって空を裂く。広がる強大な妖気と、それを斬り裂いていく鋭い霊気。それは眼前に編まれた紅の網を突き破り、目標であるレミリアへと向かって殺到した。紅い月を映し、血に染まったように輝く銀のナイフ。それらが、意思を持ったものであるかのように少女の身体を貫く。

「ぐっ……」

 この日初めて、妖怪は苦悶の声を漏らした。身体的な外傷は大した意味を持たないが、『銀に貫かれた』と言う精神的な衝撃は吸血鬼にとってそれなりの意味を持つ。そして何より、この時までこれだけの技を封印して生身で向かって来ていた人間に対して、予想以上の衝撃を覚えたのだ。そう、目の前の人間はこれまでの二週間あまりの日々、一度もスペルを使うことなく挑んで来ていたのだ。

「……この期に及んで、なかなかの手品を見せてくれるわね…」
「優れた手品師と言うのは、自分の技を披露する時をわきまえて居るのよ?」

 荒い息をしながらに、彼女は応える。その口元には薄い微笑があり、明らかに相手を出し抜けたというささやかな優越感を満喫していた。勿論このままでは劣勢は変わらないが、これが通じたならばまだ希望がある。
 ……そんな彼女の姿を見ながら、レミリアは一方で、また違った笑みを浮かべていた。その笑顔には、一体どういった意味があるのだろうか。模範解答としては、心から遊べる相手に出逢えたと言う事が6割、良いアイデアを思いついたという事が4割であろうか。

「……面白い手品を見せてくれたからには、こちらもお礼をしなくちゃね」

 そう言うと、レミリアは自らの身体に刺さったままのナイフを抜き放つ。二本、八本、十六本……その様子に、彼女は驚きを禁じえない。何せ、銀で出来たナイフであるのだ。そう簡単に悪魔の類に扱われてはたまらない。

「じゃあ……お返しするわ!」

先ほどまで自らの僕として魔を討つ力を有していた銀のナイフ。それが、今度は悪魔の走狗として逆に向かって来ている。この滑稽さに、何故か判らないが彼女は強い皮肉を感じてしまう。もっとも、その原因を今の彼女が知る由もない。今はただ、月灯りの下で目を凝らし、その手品のタネを見破ろうと集中するのみであった。銀のナイフは、強い妖気を発しつつ優雅にすら見える軌道を描く。
 …タネを見破るのと、レミリアに刺さっていたナイフが無くなるのはほぼ同時の事だった。ナイフに対して、強い呪いを結界としてその手に纏い銀の効力を遮断していたのだ。集められた呪いはそのままナイフと共に飛来する。それが、手品の正体だった。言うまでもなく、ナイフが尽きれば手品も終了である。刺さっていたナイフを引き抜いた後には、殆ど傷口も残っていない。

「……タネがばれる手品は、つまらないわね…」
「そうだった?じゃあ、今度はタネも仕掛けもないのにしようかな……」

 ちらりとレミリアの手の中に見えたスペルカードはあと二枚。月は既にかなり高く昇り、妖怪たちに等しく力を与えている。勝負のときは近い。だが、まだだ。
 唐突に片手を突き出したレミリア。その掌から圧縮された魔力が放出される。反射的に、それを退ける彼女。避わした先にあった一本の木が、レミリアの魔力の直撃を受けて悲鳴を上げる。紅い力に包まれ、くずおれて行く老木。
 …一瞬の視線を奪われると、既に眼前にはその魔力の残滓が満ちていた。四方に向かって放たれていた魔力が、その尾を引いて空間を満たしていたのである。勿論、触れれば自らもあの木と同じ運命を辿るであろう事は想像に難くない。

 レミリアの視線と突き出した片手、そして彼女の位置する空間が一直線上に並ぶ。それは、彼女にとって明らかな不吉の前兆である。動かなければ、それは滅びの運命へと直結する。レミリアの瞳が一層紅く見えた瞬間、彼女は反射的に身をひねる。一瞬前まで彼女が存在していた空間には、既に紅い力が満ちていた。その光景に多少の戦慄を覚えつつも、手にしたナイフをレミリアへと向かって投擲する。
 ……手持ちの残りのナイフは、少ない。だからと言って、出し惜しみの出来る状況ではない。その迷いが、ごくわずかな一瞬だけナイフを投げる手を鈍らせる。僅かな動きの狂いは、全身で感じ取っていたリズムをも狂わせた。

「これでおしまいか……ま、楽しかったけど」

 彼女の耳に、そんな声が聴こえた。彼女の目に、紅い二つの光が見えた。彼女の全身に、灼きつくような感覚が走った。痛みではない。安らぎか、優しさのような感覚。これで、終わる。苦しむこともない。全てが楽になる。

 ……右手の人差し指が、疼いた。

 まだ。終わらない。
終われない。
まだなにひとつ、苦しみは終わっていない。
これで終わっても、楽になどなれない。
…この期に及んでようやく気付く。求めるべき答えは、目の前にあった。この手の届く、直ぐ近くに。身を包む優しさの中に感じる、一抹の切れ目。それは彼女と同じ、小さな心。
 ……まだ、終わってはいけない。

 ……無意識のうちに、宣言は終わっていた。無意識のうちに、それは空間を編んでいた。そして意識は確実に、目の前の少女を捉えていた。身を焦がすように存在していた妖気は、無数の刃に斬り裂かれ霧消していく。彼女の手にしていた刃は、その全てが妖しの身なる少女へと向かって紅夜を裂いて行く。
 銀の刃は既にその姿を保つ事を放棄したらしい。かつてナイフと呼ばれていたそれは、文字通り一筋の光となって妖怪少女の身体を貫いて行く。完全に物理的な意味を失ったそれは、少女の身体をいとも容易くすり抜ける。
 身体の痛みは、無い。ただ、それが貫いて行った心が、鋭く痛む。まるで相手の心が流れ込むかのように、鋭く鈍く。

 ……一枚のスペルカードが、燃え尽きた。


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