人間達の住まうこの集落において、人間を護るべき役割である彼女の立場は、かなり良いものである。文字通りに命を張って郷を護る存在である以上、待遇はかなり良いといえる。しかし、妖怪に対抗するだけ、出来るだけの能力を持った存在と言う事は、同時に人間でありながらそれが人間の身を超えかけた存在であると言うことを意味している。彼女もまた、その例に漏れなかった。
人間でありながら、既に人間ではないという立場。それは、彼女の持つ能力に対してというだけではなく、その役割の持つ意味としてもそうである。妖怪から郷を護れなかったとするならば、その究極は死である。死と隣り合わせの日々。それは既に、他者から見れば死と同義であるといえる。集落のものからは、既に死んだ者……言い換えれば、妖怪に対する供物として扱われる時もある。
死者と好んで会話するものはいない。また、そう言った存在に対してわざわざ近づこうとするものも居ない。だからこそ、彼女は郷の中でも非常に孤立した存在であり、そして独立した存在でもある。彼女の身に何かが起こった所で、気にする者も居ない。事実、ここ数日の彼女の変化に気付いたものが居ただろうか。
彼女の葛藤は、この事に端を発している。人間でありながら、その能力ゆえに煙たがられる存在。人間でありながら、妖怪に近しい存在。時折、自分自身が何者なのか、見失いかけてしまう事があるのだ。数日前の夜、自らに傷をつけたのもまた、そう言った意図であった。ひょっとするとナイフを引いても傷がつかないのではないだろうか。或いは、銀のナイフを当てただけで灼けるような痛みが走るのではないかと、不安になったのだ。
……あれから毎晩、妖怪の少女は自らの下に訪れる。そして、その来訪を心待ちにしている自分もまた、同時に意識している。何故であるのか、それは良くはわからない。一つ言える事は、このまま行けば自らの命が絶たれてしまうであろうということだ。
朔の夜の不覚を除けば、妖怪の少女は彼女にかなう事はなかった。しかし、それもしばらく経つと状況が変化してくる。月が満ちるにつれて、妖怪の力が急激に増大してきたのだ。更に、妖怪はこれまでに本気を出した様子もない。本気を出していないのは自分自身も同じであるのだが………何故か、お互いにその存在や命に関わる所で本気を出しきれないのである。
命に関わる、と言う表現は誇張ではない。その証拠を誇示するかのごとく、咲夜の首筋には小さな牙痕が残っている。言うまでもなく、自らを吸血鬼だと言った妖怪少女……レミリア・スカーレットの仕業である。
……月が齢七日を過ぎた頃から、特に妖怪の力は強まって来ていた。毎晩、遊ぶように互いの妖気と霊力をぶつけあっていた二人の均衡が、ふとしたきっかけで揺らぐ。日々に少しずつ拡大され、いまや相当な弾幕と化していたレミリアの妖気が、彼女に向けて殺到したのである。
……幸運にも、命は取り留める事が出来た。しかしながら全身に細かな傷を負い、動くことも出来ない。ゆったりと歩み寄ると、レミリアは、その冷酷な吸血鬼としての本性を明らかにしたのである。
小さな口が、首筋に触れ、そして、小さな牙がその肌に触れる。一瞬の逡巡の後に、無慈悲な牙が皮膚を突き破る。声にならぬ悲鳴が聞こえたのか否か、少しずつ噴き出すその血液をレミリアは吸い取って行く。「……ごちそうさま」
静かにそう言ったレミリア。……まだ、殆ど血は吸われていないはずである。そもそも、その服は血に塗れていて、殆ど実際には血を吸えていないのではないだろうか。
「やっぱり、ブランド物は美味しかったわね……また明日も、遊びましょう?」
そう言い残して飛び去ったレミリア。大地に横たわり、静かに目を瞑る彼女。あれ以来、連日七日間……彼女は血を吸われ続けていた。昨晩は、どうにか血を吸われることもなく追い返すことが出来たが、そろそろ限界である。
今宵は、望。早くから月も昇り、妖怪には最もその力が与えられる夜である。……そして、彼女にとっては、この夜を乗り切らなければ自らの命火が消えてしまうだろうという予感があった。彼女の能力をもってすれば、出血を止めることも、身体機能を無理矢理進めることで造血することも可能である。だが、吸われて、或いは流れ出た血液を呼び戻す事は出来ない。彼女の操る歯車は前に進めど、戻す事は出来ないのだ。
夜の郷。静かな風がその身体に語りかける中。ここ数日の連戦で刃の丸くなりかけたナイフを、切り取ったように中天に描かれた月にかざす。その刃は満月の光を映して、ここ数日で最も明るく輝いていた。
……まるで、私のようね……と言う呟きは、強い月の光に向けて溶けこんで行ってしまったらしい。