あの朔の日の翌日。僅かにその姿を見せ始めた月の下で、彼女はまた同じ様に静かに夜を待っていた。昨晩、ああして傷口から血液を舐め取った妖怪の少女に、逢えるならば…と、そんな考えが脳裏をよぎる。郷を妖怪から護る身であればこそ、その様な考えは捨て去らねばならない。だが、それでも…人の身としては既に忌まれるべき存在として、心の何処かが彼女の来訪を望んでいた。
昨日、自ら切り裂いた右手の人差し指の傷口は。既に、僅かな白い筋を残すのみで跡形もなくなっている。だが、この傷口は昨晩、妖怪の少女が去った直後には、既になくなっていたものである。滲む血が乾く間もないほどの時間の邂逅だったはずであると言うのに、自分が何も手を下すことなしに傷が消える事はあり得ない。考えられるとすれば、妖怪少女が何かをしたという、それだけである。
……何かが頭の中で色々な声を上げている。どうすれば良いのか、正直、判らない。色々な声に突き動かされるように……或いは、そうした声から逃れるかのように…また右手の中指に、ナイフを当てる。その時だった。「まったく、勿体ない事はしないで欲しいわね…」
「……あら、また来たの?」
「えぇ、ここのブランドが試食で気に入ったのよ。」
「今日はお財布持ってるかしら、お嬢さん?」
「当たり前じゃない、今日は普通にお買い物よ。お邪魔しても良いかしら?」
「…残念ながら、今宵は全て品切れとなりまして…」
「そう?とりあえず残り物のあなたでも良いんだけど」その声がきっかけだった。またしても瞬時に妖怪が動く。一方のこちらもまた、今日は油断してはいない。瞬間に思われる時間を見極め、次の行動を予測する。昨日と同じ動き。ならば、その動きを予測して断つこともまた、容易である。
「……じゃあ、頂いていくわね」
「…品切れ、と言ったはずよ」昨日と同じ。瞬きする間に接近した妖怪の少女。しかし、飛びかかったはずのその先には、人間は居なかった。代わりにあったのは、空中で静止するナイフの群。それはさながら檻のように、妖怪の身体を取り囲む。
「……あらら、それは残念……」
「そう言うわけで、お引取り願いたいんですが」
「ま、品切れじゃあ仕方ないわね……」静止したナイフは、恐らく彼女の意思一つで何時でも動き出せる状態になっているのであろう。銀で出来たそのナイフにまともにやられたならば、恐らくかの妖怪も痛手を負う。……逆に言えば、その事が判っているのになぜ彼女はナイフを動かさないのだろうか。
「……これでおあいこって事なのかしら?」
妖怪少女が尋ねる。
「…さぁ、ね。単に気まぐれよ」
人間の彼女が答える。彼女自身、何故此処でこうしているのか判らないのであろう。…そう、刃の檻を収束させれば、郷を護る存在としての自分の役割は果たされる。だが、それを拒む自分の中の何か、存在がある。葛藤を紛らわせる力を持った存在をどうすれば良いのか、新たな葛藤が生まれる。
……しばし、長い時間。ナイフの檻は、開くことも閉じることもなく、存在し続けた。ややあって、突然にナイフがその場で地に落ちる。「……行きなさい。今日はもう店仕舞いよ」
「…あら、それはどうも………でも、また来るわよ?」
「行きなさい。次は容赦しないわ」
「……とりあえず、次には在庫を揃えておいてね?」そう言いながら、悪びれる様子もなく消えていく少女。それを見送る、彼女。少女の紅い瞳が、自らの瞳にもまた焼き付くかのようだった。