目の前に、一羽の蝙蝠が降り立つ。それは一瞬輪郭をぼかすと、その後に人型をとり、実体と化す。その姿は……意図して声をかけたものよりも、一回り以上幼く見えた。
「こんな夜に人間が出歩くなんて、珍しいじゃない」
「……そっちの方が珍しいわ。人間ばかりの所にやって来るなんて、ようこそコウモリ人間さん?」
「人間の所には良く来るわよ?だって、食料だし」
「……この郷にはあんまり高級の食材はないわ」
「別に構わないけどね。ブランド物には興味がないし」会話を交わしながらも、妖怪である少女は強い霊気を発し始める。如何にも、妖怪らしい。こちらもまた、ナイフをその手に握りなおして、応戦の構えを取る。
「……で、今宵はどのようなご用件で参られたのでしょうか、お嬢様?」
「ちょっとばかり、ウィンドウショッピングよ」
「お気に召した品物はございまして?」
「んー、まぁね。そもそもこの郷に来たのもその所為だし」
「そんなに良い品物がありましたでしょうか………?」
「具体的には、あなたね。何だか良い匂いがしたし」……妖怪が指差したのは、彼女の右手の人差し指だった。彼女もこの時ほどに、自らの失策を呪う事はなかっただろう。そう、先ほど自ら切り裂いた自らの身から滲んだその自らの血が、目の前の妖怪を呼んでしまったのだと言うのだから。その衝撃は、彼女から一瞬の動きを奪ってしまう。
「…………!」
「そう言うわけで、早速だけど貰うわよ?」宣言された後の動きは、素早かった。動きと反応が止まった一瞬の間に、妖怪の少女が彼女の懐へと潜り込む。至近距離。今からナイフを操ってもそれは遅すぎるし、何よりも距離が近すぎてどうすることも出来ない。互いの息が触れ合う距離。人間と妖怪、その二つの異質が重なり合う、直前の距離。彼女は明らかに、その妖怪の力を見誤っていた。息が、止まる。二つの目が、合う。
―――かちゃん―――
手からナイフは離れ、地に落ちる。妖怪に何かされたと言う訳ではない。自らの意思で、ナイフは全て手から解放された。『負けてしまったのだ』と言う気持ちが、彼女から抵抗する意思を奪う。
「……あれ?もう終わり?」
「……自分の負けを認められないほどに、私は愚かでもないわ」
「……真なる愚者は、その意味する本当の姿すら知らずに果てる」
「…どう言うこと?」思わず、訊き返してしまう。背の高さはかなり違うが、殆ど密着するような距離で、人間と妖怪の問答は続く。
「さて、そんな事よりも頂くわよ?」
「……好きにして。私なら、どうでもいいわ……」彼女は、既に何かを諦めているようだった。ここで彼女の一部として自分の存在が還元される事となったとしても、誰も悲しむものはないだろう。自らの葛藤も、またここで消えてなくなるのだ。むしろ、それは幸せな事なのかも知れない。
「なんか、あんまり面白くないけど…勝手に頂いて行こうかな」
妖怪は、その身を軽やかに滑らせると、彼女の右手の人差し指……血の滲んだままの指に、そっと唇を這わせる。異質な感覚に、背筋に電流のようなものが走る。そして、妖怪の口が小さく開くと、その傷口を包み込む。
……それは、彼女にとって意外な事だった。自ら傷つけたその指……鈍い痛みが続いていたその指を、暖かく柔らかい感覚が包み込んでいる。実際には、その指から滲む血が目当てなのだろうと、察しはつく。だが、それ以上にこの暖かな感触が、意外であり、そして、何故か心に染みた。「……なかなかの味だったわね…ごちそうさま」
「……ちょ……それ、だけなの?」彼女は、突然に打ち切られたその感覚に戸惑いを覚えつつ、そう尋ねる。妖怪に目を付けられた以上、既に自分の命はないものと思っていたのだ。
「あれ、言わなかった?ウインドウショッピングだって」
「な………」
「代金を持ってきても居ないのに、試食以上して帰る気はないわよ」そう言いながら妖怪は飛び上がると、既にその姿を消し去っていた。そもそも代金を支払う気などあるのだろうか……と場違いなことを考えつつも、人間の彼女は唐突に独り残される。散らばったナイフが遠くに映す星々は、小さく輝くばかりで、到底ぬくもりを与えてくれそうには思えなかった。