…どうも気分がすっきりとしない…何故だろうか…
今、私は自分に充てられた部屋で、眠れぬ夜を過ごしていた。どうして私は此処に居るのだろうか?私は何者だろうか?
…そもそも、何故私はこんな事を考えているのだろうか?
そんな考えが先ほどより脳裏を飛来し、そして消えて行く。……莫迦らしい。私は軽く頭を振って、粗末な寝床から身を起こす。まだ起きるには程遠い時間だが、何故か眠気はなかった。…そもそも夜に熟睡する事など、余り無いのではあるが。寝苦しさに塗れた寝間着を脱ぎ捨て、何時もの様に仕事着に袖を通す。
……?
矢張り、何かがおかしい。サイズが合っていないのだろうか?……兎も角、こんな調子ではいけない……気分を整えるためにも外へ。…今は夜風に吹かれたいと、思った。
今宵は、朔夜。家から出た私の身を照らすのは、僅かな星明かりだけである。それでも、彼女にとっては十分な光量であるし何よりも妖怪たちが静かでありがたい。妖怪の力の源は月光であり、そして朔の夜には勿論その月の光もない。…もっとも、妖怪の中にも真なる闇を好む者もまた、居ないわけではないので注意が必要であるのだが。幻想郷と言う妖怪中心文明に住まう者としては、何時でもその警戒を怠るわけには行かない。…殊に、彼女と言う存在はそうである。
星灯りの下で、彼女は所持する品の中で最も重要なアイテムを取り出す。それは、刀身が銀で創られた、ナイフである。言うまでもなく銀には魔を退ける力が宿りやすく、この人間の郷を守る役割を負った存在である私には、必須のアイテムであるとも言える。
そう……今の彼女は、幻想郷の中でも数少ない、人間の郷を妖怪から護る人間としての存在である。多くの者は退魔の術や魔法を持って妖怪に当たる事が多いのだが、彼女の場合は主に魔力を帯びたナイフでの、直接的な排除を目的としている。相手が人間ならいざ知らず、妖怪である以上は手に持つものがナイフであろうと札であろうと大した変わりはない。妖怪の多くにとっては、身体的な傷は精神的な傷以上の価値を持ち得ないためだ。
…そんな事を考えながら、そっと指先にナイフの刃を当てる。そして、そのまま押し付ける。斬れる事はない。その事にほっとしながらもまた、少し、軽く、その位置をずらし……刃を押し当てたままに、引いてみた。
指先の皮が鋭く破れ、僅かながらに血が滲み出す。勿論、痛みも伴った。その結果に、彼女は満足する。勿論、この真夜中の郷に目撃者など居ない。月すらも見えぬ夜、彼女のこうしたささやかな葛藤を知るものなど、居ない筈である。……声が、聞こえる。
………意識の片隅で、何かが彼女に警告を発する。あり得ないはずの事が、起こっていると言うことを。このような場所に、あるはずのない現象が起こっている。真夜中の村に、声を発するような存在はあり得ないはずなのだ。
………美味しそうね…………
無意識が捉えたその『声』に、彼女は思わず身構える。やはり、この声は人間のものではない。闇の中の何処かに、魔の気配があるのだ。そして、それは意図を持って自分自身に語りかけて来る。そう言う確信があった。
…無意識に身体が戦闘体勢を整え終わる。手の中には、例の銀のナイフが構えられる。血の滲む右手の人差し指に、鈍い痛みが走る。だが、今はそれを構っている場合ではない。それだけ、今の状況は芳しくない事を無意識が教えているのだ。
彼女にとって、並みの妖怪は全く敵ではない。朔である今宵に多くの妖怪の力が衰えることを考えれば、それは好材料であると言えよう。だが、それでも彼女が気を引き締めたのには理由がある。少なくともその内の一点は、闇に潜む気配が非常に強い意思を宿していたという事であろう。意志の強さがそのまま反映される魔法の力に関して、これは非常に不利をもたらす材料といえる。「……こんな夜にお散歩かしら。夜遊びは良くないわよ、お嬢さん?」
見えない相手に対して、そう声をかける。相手の姿も素性もわからないのにこう声をかけたのには、理由も何もない。ただ、そんな気がしただけと言う直感である。だが、どうやらそれが相手の気勢をそぐ事に貢献したらしい。
「……なんだ、見えてたのかぁ……」
その声は、余りにも平然と。そして、普通に返って来たのだった。まるで鬼ごっこに見つかった子供の様に。