『幻想郷と鬼』・考

 萃夢想を一通りクリアされた方なら、鬼と言うのがどう言う存在であるのかが何となくわかるかと想う。
 既に幻想郷には居ないはずの存在。そして、このゲームに於ける鬼……萃香も、鬼としては異端児であった。
 幻想郷に居られるのも、そうした異端児であるからゆえ、イレギュラーのイレギュラーだったからであると言えよう。
 しかし、この物語にしてゲーム、『東方萃夢想』では鬼とはどのような象徴であるのだろうか。
 そして、鬼を通じてかの『神主』様は何を描こうとしたのだろうか。それを考えてみたい。

1.鬼と妖怪
 鬼は人を攫う。人は鬼を退治する。
 これが、鬼と人との間に築かれた信頼関係の一つの形であったと言う。
 しかし、人は鬼の事を忘れた。鬼も人を見限り、鬼だけの世界に行った。
 鬼を卑怯な手段で一網打尽にしようとしたと言うし、その辺りの事情は幻想郷の妖怪と、外の人間の関係にも似ている。
 だが、鬼は妖怪とは全くの別種として描かれている。
 正直、私も萃夢想までは鬼と妖怪を(幻想郷世界の中で)同一視していた。
 レミリアも吸血鬼であり、鬼の一種、同類的な見方をしていたのである。
 が、これは萃夢想において完全に否定された。どちらが土着でどちらが貴族かは兎も角、両者は全くの別次元の存在である。

 妖怪は人間を食料とすると言う。一方、鬼はどうやらそうでもないらしい。
 また、鬼は妖怪と比して圧倒的とも言える力を持つ。それは幻想郷においても神秘とされる能力である。
 人間界で絶滅した存在が幻想郷で分布を広げると言う今までの感覚で言えば、これはおかしい気もする。
 が、彼らは幻想郷ともまた違う世界に今は住んでいるのだと言う。
 つまり妖怪たちとは異なり、(少なくとも今は)幻想の生き物ですらないのである。
 幻想郷と言う世界に住まう事を許されなかった彼ら。彼らの存在には、何かの意味が含まされていると考えて良いのではないだろうか。

2.酒呑童子と鬼
 上で、『幻想郷と言う世界に住まう事を許されなかった彼ら』と言う表現をした。
 通常で考えれば、これはおかしい。彼らは望んで幻想郷を……人の住まう地から離れ、幻想の生き物ですらなくなったと言える。
 しかし、ここで一つ気に掛かる点が生じる事にお気づきだろうか。

 萃夢想EDにおいて、実は今回の騒動は、萃香が鬼達を幻想の生き物へと復帰させようとした試みであった事が明らかとなる。
 ご周知の通りこの試みは失敗するのだが、結局のところ、この失敗の原因は何であったか。
 それは、かの博麗の巫女、霊夢の持つ能力ゆえであったと言う。
 ここで一つ、飛躍した考え方をしてみる。
 霊夢の(無意識の)意思……つまり、幻想郷世界の意思は、鬼を拒んだのだと言う考え方である。
 これは確証も何もないが、ひとつの物語の組み立てから考えて、そのメッセージを(無理矢理)汲み取る工程として考えて欲しい。

 『博麗 霊夢の言う事は全て正解よ』

 ……この言葉を拠り所とするに少し無理があるのは承知の上であるが。
 
ととさんの考察をお借りすれば、嘘を一切吐かない正直者の霊夢=酒呑童子が、全ての代弁者であると言うことも出来るだろう。
 とすれば、鬼達は幻想郷世界の代弁者、博麗 霊夢に幻想郷での存在を否定されてしまったのだ。
 ならば、鬼を否定した『霊夢の能力』とは何だっただろうか。
 それは、既にご存知の通り……『空を飛ぶ程度の能力』である。

3.「空を飛ぶ不思議な巫女」
 萃夢想の物語の最後を締め括るスペルカードにして、東方シリーズのテーマとも言えるこの言葉。
 その難易度は恐ろしく、私は初見でびびって巨大化したまんまパンチ連打でぎりぎり競り勝ったが……っと、それは兎も角。

 空を飛ぶ霊夢の能力。その本質は無重力。あらゆる存在に対して平等であり、裏も表も存在しない。
 逆に言えば、それは旧き者も新しき者も全く区別せず、同様に扱うと言うことでもある。
 旧知の友であっても、ついさっき知り合ったばかりの者であっても平等。
 恐らくは、自分自身と言う存在に対しても平等なのだろう。
 (平等と言う言葉の正しさはこの際考えないが)

 ここで霊夢の能力について注意すべきは、平等に良くする、と言う事とは限らない事である。
 平等に良く接する事は平等に悪く接する事と意味合い的には同じであるし、それは多分本当の意味で平等ではない。
 その場合だと、自分自身に対して平等ではないからだ。
 霊夢の場合、全てに平等であるのは接し方云々の一歩手前。
 自分自身をも含めた全ての存在、事象を(霊夢特有の)同じ尺度でもって判断し、そして行動できると言うことだろう。
 他人が霊夢にこの尺度を押し付ける事はできない。自分も含めた全てのものから一歩引いて、そして判断できる。
 だから、言いたい事は素直に何でも言うし、一見して我侭にも見えてしまう。価値観も常人からは良くわからない。

 しかしこれはつまり、物事に関して一切のしがらみを捨てて考える事が出来ると言うことと同義と言えるだろう。
 あらゆる概念の枠に縛られない。完全に客観的な判断が出来る。それが、霊夢の能力なのだろう。

 『結界そのものを意識しすぎている事は根本から間違っている、と霊夢は思う』

 神主様の表現に良く見られる、『○○(STGなど)を見ようと想ったら、それ以外も見ると良い』とか、
 『○○として見るよりも、一つのゲームとして見て欲しい』と言う表現も、この表れと言えるのではないだろうか。
 ともあれ、この霊夢の能力が鬼達の幻想の生き物化を防いでしまったと言うこととなるわけである。

4.人攫いと鬼退治
 鬼は人攫いをするもので、一方の人間は鬼退治をするものであると言う。
 では、人攫いとは何か。それは、人間に対しての恐怖心の象徴であると言う。
 言い換えれば、鬼は恐怖心として存在しなければ『鬼』ではない。
 萃香が失敗した理由が人攫いを行わなかった事である事からも、この事は伺える。

 一方、鬼と妖怪……妖怪たちは、人間たちにとって恐怖心の象徴であるのだろうか。
 少なくとも、霊夢たちにとってはそうではない。
 妖怪と人間は能力的に拮抗しているし、食料としての人間調達も無闇な楽しみよりは、必要で仕方なく行う部分がある。
 咲夜など、妖怪を恐れていては何も出来ない^^;

 ここ……幻想郷には圧倒的な力の差は存在しないし、存在してはいけないのである。
 表現を変えれば、余りに大きなバランスの崩れは起こってはいけない。
 一度崩れれば、サラサラの血液のように全てが流れ出してしまって何も残らないと言うバランス。それが幻想郷。
 ひっくり返せば中身が全て出てしまうまで止まらない瓢箪。止まるのは、転等防止装置が働いた時。
 こう言う考え方も、できるのではないだろうか。

 ……もっとも、ここでも一つの大きな留意点がある。
 力と言うのは、飽くまでもその力を遊びではなく本気で使う状況が発生してしまう事態での力の事を言う。
 紫の力など萃香に匹敵する力であると言えるし、そもそも結界を弄れば戦う必要もない。
 ここで必要になるのが、スペルカード制(が最近の流行であると言う)決闘とそのルールだ。
 JOJOのスタンド戦闘ではないがこの決闘の下では必ずしも弱者が敗北するとは限らない、暗黙の関係がある。

 この決闘は、彼女達にとって完全な遊びであって、真剣である。
 それこそ弾幕を張るだけの心の余裕と遊びが失われては、この世界は成り立たない。
 つまり、彼女達の紡ぐ物語は全て遊びの範疇である必要があるのだ。
 彼女達が遊びの範疇を越えて真面目な戦いをしてしまったならば、『東方シリーズ』の物語は成り立たないのである。

5.ドラゴンメテオ
 『もしわしの味方になれば世界の半分をやろう』
 『もうひといきじゃ パワーをメテオに!』
 『クックックッ……黒マテリア…………』

 私がドラゴンとかメテオとか聞くと某有名RPGのこの辺りのセリフが思い出されるわけであるが^^;
 そうでなくてもドラゴンを召喚したり、メテオを呼んだりするのはとっておきの一撃であると言えよう。
 # 某FF4の緑髪召喚師を思い出す^^;

 ……ところで、こうしたRPGの物語には鬼(魔王)と英雄(勇者)と人攫い(囚われの姫)がある。
 これは一つの喩えであって、魔王だったり魔神だったり、囚われの姫は星そのものだったり世界の平和だったりするわけだ。
 言ってみればRPGのステレオタイプ……
 いや、RPGに限らず、物語を構成する上で御伽話の世界から脈々と受け継がれた一つの物語の形である。

 こうしたストーリーでは、(作品での)世界を脅かす強大な敵に、弱い主人公(人間)が立ち向かっていく。
 そして、成長の過程を経て最終的には敵を打ち倒す。倒せなければ(ゲームオーバーなら)、世界は焉わる。
 敵であるところの魔王なり何なりの目的が達せられて、結局のところ世界は破滅なり何なりして終了である。
 主人公と敵、これらは物語で交差する事はあれ、いずれか一方が排除される背反の世界と言っても良い。

 しかし、逆に主人公側の目的が達せられたならどうなっていたのだろうか。
 それは、望む世界……目的を達成した上での世界が展開されるのだから、ある意味当たり前ではある。
 しかして、これを幻想郷世界にあてはめて考えると……どう言う事が起こるのだろうか。

 紅魔郷でも妖々夢でも、そして永夜抄でも言える事が一つある。
 それは、いずれの場合もお互いが遊びで『放っておいても大丈夫』な関係にあったと言うことだ。
 確かに、放置すれば霧は結界を越えたかも知れないし春は来なかったかも知れない、月も欠けたままだっただろう。
 だが、それは何れ解決すれば良い問題だった。
 負けた(バッドエンディング)主人公たちは、負けた事を悔しがる事はあれど、別段命の心配はしていない。
 その逆に、倒されるべき敵方も、敗れたからと言って命を失うわけではない。矢張り、これは遊びなのだ。

 更に幾らか言う事が出来る。
 敵と味方の実力差は殆どない。言い換えれば、東方は絶望的な力を持った魔王を打ち破る物語ではないのだ。
 と言うか、主人公の霊夢のほうがよほど絶望的な力を持っている。制限時間なしで無敵になれるキャラなど他に居ない^^;
 もっとも、鬼は鬼でそれ以上の力を持っていると言う話ではあるが……

 だがそれも、幻想郷の決闘ルールの上であれば問題ではないのだ。
 問題は、ルールを逸脱する瞬間。ルールを守っていられない状況が出てきてしまった場合。
 つまり、『鬼』が『人攫い』をしてしまった場合には、幻想郷世界は崩壊してしまう。
 本気で事態を収拾に向かわせようとした場合、互いが死力を尽くしてしまった場合、東方シリーズの描く世界は終焉を迎える。

 こう言う意味で、東方シリーズに於ける幻想郷物語に、鬼は必要ない存在……鬼は居てはいけないキャラなのだ。
 萃香が今回の物語で幻想郷に馴染む事が出来たのも、『人攫いを行わなかったから』である。
 こう言う意味で、萃香は鬼の中の異端児……逆にそれゆえ、幻想郷に馴染めたと言うことだろう。

6.英雄の鬼退治
 さて、ところで萃香の物語の上では、タイトルがそれぞれ○○の鬼退治と命名されている。
 パチュリーならば魔精……これは魔法と精霊、まさにパチュリーを示している。
 その中で唐突に魔理沙だけは、『英雄』とされている。何故魔理沙が英雄であるのだろうか。

 タイトルの副題を見ると、魔理沙は英雄であって更に、humanism……人間主義と言う言葉が充てられている。
 人間であって、英雄……もうお分かりかも知れないが、魔理沙こそこの鬼退治物語の主人公として選ばれた存在である。
 選ばれた、それは誰に。
 物語中であるように、今回の宴の幹事に選び出したのは萃香。そして魔理沙を気に入った、と言う。
 更に魔理沙を弱い人間と評し、萃香と魔理沙はここで戦う事となっている。

 幹事とはつまり、今回の宴の仲間を集める中心の者……そして、弱い人間の代表。それに『最適』と萃香は言う。
 そう、魔理沙は英雄であり、『勇者』である。幻想郷に住まう人間のうちで、竜王退治、魔王退治を行う主人公として最適だったのだ。
 だから、萃香は魔理沙に目をつけた。魔理沙が英雄である所以がそれである。

 しかし、英雄である魔理沙と鬼である萃香が戦った結果、英雄は敗れ去る。しかし、これも遊びの範疇だ。
 仮に萃香が何者かを『人攫い』していれば、結果はまた違ったものになっただろう。
 勝ち負けは兎も角、英雄と鬼の死闘の末に何れかが勝利すると言う構図は間違いなく生じてくる。
 負けた魔理沙が、そろそろ宴も始まるから……と引き下がる理由も消失するはずである。

 さて、所謂『普通の物語の主人公』である魔理沙が敗れた後には、最終的に『幻想郷の物語の主人公』霊夢が登場する。
 そして結果、萃香はここにおいても勝利する……が、萃香には目的を達する事が出来ないのである。
 “主人公を倒せば、目的が達成できる。逆に言えば、主人公が敗北すれば物語世界は崩壊する”
 ……昔からのこうした『鬼の居る物語』は、幻想郷世界にはそぐわない。
 考えてみれば、妖々夢においてもそうである。幽々子が幾ら春を集めようと、けして西行妖は開花しない。
 幻想郷の物語、東方シリーズは、鬼退治物語ではない……つまり、そう言うことなのではないだろうか。

7.まったりとした物語
 我々が惹かれ、そして追体験している物語は、幻想郷の物語である。
 そして、幻想郷の物語は、彼女達の遊びの物語である。
 世界が崩壊の危機にあるとか、そういった事は一切ない。だけど、真剣。真剣な遊び。
 そして、けして『熱い物語』ではないのである。
 演出や展開を熱いと感じているのは『二次元と三次元の境界』……『客観結界』の外側に居る我々である。
 彼女達本人は、普通にまったりとした日常の延長を送っているに過ぎない。
 # 恐らく香霖堂は延長ではないまったりとした日常そのものと言えるのだろうが、まぁそれはそれとして。

 遊びだからこそ、弾幕なのである。遊んでいられるからこそ、弾幕を展開するのである。
 そして遊んでいられるだけの余裕こそが、彼女達の美学なのである。
 余裕がなければ弾幕にはならない。そして、弾幕は美しく展開されるものである。
 余裕を生み出すのはルールであり、余裕があるからこそルールが生まれる。
 その余裕を失くすものは、幻想郷世界の美学に反するのだ。
 ……だから、鬼は幻想郷へと帰って来なかった。人攫いは少々、ルールとしては重すぎる。
 命懸けの信頼関係を築くには、幻想郷は平和すぎるのだ。

 ……そして、これは恐らく……
 霊夢の能力に対して、人攫いは意味がない。空を飛ぶ彼女にとって、如何なる脅しも何も意味を成さない。
 英雄である魔理沙にとってそれは大きな意味があるのかもしれないが、幻想の物語の主人公、霊夢にそれはない。
 それが恐らく、あの最後の言葉の意味であるのだろう。

 ……そう、霊夢と魔理沙。
 まったりとした物語を牽引する二人の主人公は、それぞれ『幻想世界の主人公』と『我々の世界の主人公』の象徴なのだろう。
 # ……人気投票の順位がある意味それを証明している気がするが^^;

8.『東方萃夢想』
 萃夢想をゲームとしてみた時、これは『格闘ゲーム』ではない。
 一つの新しいゲーム……『東方萃夢想』である。
 そして、紛れもない『東方』である。

 霊夢の能力……空を飛ぶようにして考えれば、その物語はかつての物語とは異なって考えるべきなのかも知れない。
 ジャンルと言う縛りに囚われず、作品を創作する……その一方で東方がジャンルとして縛られるのは、かなりの皮肉と言う他はない。
 しかして、東方が東方である所以は縛られない事である。
 私が言うまでもない事であるのかもしれないが、縛られないことにも縛られずに、創作活動を行っていただければと存ずる。

 ……そして、二次創作者である自分自身にも。
 『東方シリーズの二次創作』である事と、『二次創作の東方』である事は大分違う。
 神主様曰くの『熱い二次創作』と言うのは、きっとそう言う意味だったのだろう。
 が、二次創作は一次創作以上に自由にあるべきなのだと想う。
 だから、縛られずに表現出来る世界を表現していけば良いのではないだろうか。

 各人の瞳に映る幻想郷の像は、同じではない。
 ここに書いた考察のようなものは、けして各人の幻想郷観を縛ろうと言う意図の下のものではない事を、最後に強調しておこう。
 そもそも、この答えが正しいのか否かは、恐らくは例外を除いて誰にもわからないのであるから。

 


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